道はオーストラリアにあり
- お父さま(写真家・食文化研究家の森枝卓士氏)の影響で、当時はまだ珍しかったスパイスや食材が、身近にあったとか。
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パクチーやナンプラーが、当たり前にありました。テーブルの上に転がっているトウガラシを食べて、めちゃめちゃ辛かった記憶も(笑)。今から30年くらい前のことです。父は、まだあまり知られていなかった東南アジアの食文化を紹介した人間だったので、そうした食材が、家に結構ありました。
小学生の頃は、(父と)一緒にカレー用の玉ねぎを炒めたりした記憶がありますが、中学の途中からバレーボールをはじめてからは、スポーツ漬けでした。
- 高校時代は都大会で優勝し、全国大会にも出場された。オーストラリアに渡り、「Tetsuya’s」で修業をはじめた頃も、まだ、バレーボール選手への夢を持っていたんですよね
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向こうでは、長時間勤務にならないよう、働く時間がきちんと管理されているんです。それで、朝、割と時間があって、ビーチバレーを教わっていました。でも、コーチをお願いしていた、元オリンピック選手の力がすごすぎて、プロにはなれないと心が折れた感じでした。
- そこから料理に真摯に向き合われた。とはいえ、すでに、高校を出て、調理師専門学校も卒業されていた。料理人になるのは、やはり、必然だったと感じましたか。
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小さい頃から食べるのが好きだったし、(父親の影響もあって)漠然と、そうなるだろうなという思いはありました。「Tetsuya’s」では、アジア、ヨーロッパ、アメリカ系と、国や人種が異なる同世代の仲間たちがいた。彼らが世界中に散らばって、「来たぜ!」って訪ねたりして、今も仲良くしています。(オーストラリアでは)料理のジャンルにこだわらない、自由な発想に大きな刺激を受けました。
- 帰国後は、「湖月」で日本料理を学ばれました。紹介などのご縁があったのでしょうか。
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自分で探したんです。何度か食べにも行って。(料理人として)もう一度海外に出るなら、和食を知っておかなくてはいけないと思った。3年間お世話になり、四季に応じた食材や調理、おせち作りも経験し、日本料理の美味しさのバランスを知ることができました。
- 水産資源に関する問題意識に芽生えたのは、その頃ですね。
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佐藤さん(「湖月」のオーナー)も、築地市場の人も、魚が少なくなった、高い、とおっしゃっていて、大変な状況にあることが分かった。家にも、そういう(水産資源に関する)専門書が何冊もあったし、自分なりに勉強するようになりました。